先日、知人の車に乗せてもらったら、カーステレオで大事マンブラザーズの「それが大事」が流れていた。
私がまだオッサンでなかった20代前半の頃に、大流行した曲である。彼は私と同世代なので、車で流れる曲には、「あ、これ知ってる」というものが多い。
この曲の途中に、
「ここにあなたがいないのが淋しいのじゃなくて
ここにあなたがいないと思うことが、淋しい」
というフレーズがある。
当時はそれを聴いて「何を屁理屈をこねているのか」と鼻で笑っていた気がするが、今はその言葉が意味することがよく分かる。
世界とはーー少なくとも私にとっての世界とはーーそこにある「環境」ではなく、環境を受け止めた脳が再構築した3D映像のようなものだ。
環境と、感覚器が受け止めた環境の様子と、それを受けて脳が解釈した結果は、実は全く同じではない。
三次元であるモノを面である網膜に写すのだから、そもそもそこで差異が出る。
また、ある研究によればあるものを見たときに網膜に結ばれる像と、それを受けて私たちが思い浮かべる映像との間には開きがあることが分かっているという。
たとえ物理的に目の前に「あなた」がいたとしても、感覚器官がそれを捉えなければ、「あなた」はいないも同然である。
あなたがいて、感覚器官がそれを捉えていても、脳が「いないのだ」と思えば「あなた」はいない。
逆に、ここに「あなた」がいなくても、なんらかの事情により「いるのだ」と思い込んでいれば、その瞬間の私の世界では「あなたはそばにいる」ということになる。
こんな風にくどくど書くとややこしく聞こえるが、実際、そんな事はよくあることだろう。
たとえば、セールに夢中になっている隙に子供がいなくなっていた、という経験を持つお母さんは多いと思う。いないことに気付いた途端に、
「あっ、またいない!!」
と焦る。
その瞬間から、そのお母さんの世界では、「子供がそばに存在しない」という事が現実になる。実際には数分前からいなかったのかもしれないが、いないことに気づくまで、彼女の世界では子供がそばにいるということが確かな現実であったはずだ。
それと同じで、「あなた」がいるかいないかも、私の心がどう捉えているか、それ次第ということになる。
物理的に隣にいて、第三者から見たら「何言ってんの、いるじゃない隣に」という状況であったとしても、私がそれを感知し、認識できなければ意味がない。
そこにある環境が現実なのではなく、自分の心に映るものが自分にとっての現実。
私がいつからそういう視点で世界を見るようになったのか、おそらくここ数年の事だとは思うけれど、はっきりした記憶はない。
確かなのは、それはまさにコペルニクス的な転回であったということだ。
思えば、自分は自分の主人公であるとか、自分の思いが人生を作るとか、この真理を表すような表現にはそれまでにも数限りなく触れていたが、この意識転換の前後で、そうした言葉の持つ意味の重さは大きく変化したといっていいと思う。
自分は自分の主人公どころではない。
むしろ、原作者に近いのではないか。
そういう視点で世界を見始めると、その他の様々な事に対するものの見方も少しずつ変わってゆく。
幸せな、あるいは穏やかな人生を生きたいのなら、自分で自分のシナリオに苦しむ要素を書き込まないことだ。
それは、「自分を愛してあげましょう」といような生易しい事ではなく、細心の注意を払って人生の小道を整備する、そういう作業なのではないかと思うのである。