静龍の庵

なぜ生きるのか

ヴィパッサナー瞑想をやっている関係で、私はしばしば根本仏教に関連する文献を読む。

念仏さえ唱えれば成仏するとか、秘法を用いて物事を動かすとか、仏教にも色々な宗派があると思うが、根本仏教は、ブッダの見つけた真理を実践することを唯一の教えとする。

それほど真剣に学んでいるわけではないので確かなことは言えないが、根本仏教の教えを見ていると、宗教というよりは科学とか心理学とか、そういったものに近いような印象を受ける。
いま、私の手元には根本仏教の僧侶の方が書いた本と脳科学者が書いた本の二冊があるが、この二冊には、アプローチは違えど、ほぼ同じことが書いてある。
ブッダは仏教という宗教の始祖と考えられているけれど、もしかすると2千数百年前の世界に生きた科学者だったのかもしれない。

ブッダの見つけた真理というのは、改めて学ぶととても面白い。
たとえば、「人は何のために生きるのか」というのは誰しも一度は心に抱く普遍的な問いだと思うが、その割に「これだ!」という答は見つかっていない。

幸せになるためとか、魂の成長のためであるとか、人生とは修行の場であるとか、神のもとに戻るためとか、色々な考え方があるけれど、どの考え方にも、正しいような正しくないようなもやっと感が残る。そもそも正解の分からない問いなので、それは仕方のないことだ。

ブッダはこの問いに対して、こんなことを言っている。

まず、生きている人間と死体を比較して「生きるとは動くことである」といい、「なぜ生きるのか」という問いを「なぜ動くのか」という問いに置き換える。

次に、生き物がなぜ動くのかというと、じっとしていると苦しいからである、という。
言われてみれば確かにそうだ。正座したしたまま30分も過ごしたら、足は大変なことになる。

そこで、我々が生きる=動く目的は、苦しみから逃れるためである、と定義する。
同じ状態であり続けるのは苦しいことで、その苦しみから逃れるために我々は生きている。

苦しみから逃れると、その瞬間は幸せが訪れる。正座をやめ、強烈な足の痺れが治った瞬間、私たちは「ああ、スッキリした」という幸せを感じる。
しかし、じゃあその体勢のまままた30分過ごせと言われたら、次は体の別のところに違う痛みが出てくるはずだ。

そこで、幸福というのは、ある苦しみを別の苦しみに置き換えるもの、あるいはそのつなぎ目の状態である、という。

…と、こんな調子で、対象を観察して見つけたことをもとにして、これはこうだ、あれはああだ、という事をおっしゃっている。

私は何事につけ「なぜそうなのか」という事が気になってしまうWHYの人なので、こういう考え方が好きである。
単に「人はみな幸せになるために生まれたのです」と言われても、「まぁ、そうなのかな、そうかもしれないな、よく分からんけど…」といったもやっと感がそこには残るが、何もしなければそもそも苦しく、そこから逃れる=幸せな状態になる ために動く=生きるのだ、と言われれば、ああ、ナルホド、と思うのだ。