静龍の庵

願いは叶っている

人の願うことは九割がた叶うものである、という話を何かで読んだ。

考えてみれば確かにそうで、私が水が飲みたい、と願ったら、九割どころかほぼ百パーセントの確率で水を飲むことができる。
朝起きて、さて会社へ行こうと考えたら、九分九厘の確率で二時間後には会社にいる。
目の前にある紙を鶴の形にしたいと思えば、3分後にはそれは鶴になっているだろう。

にもかかわらず、物事が自分の思い通りにならないと不満を抱えている人が多いのは、我々が基本的に忘れっぽく、かつ心変わりしやすいからなのだそうだ。

「いつかはクラウン」(古いな…) と思って頑張って働いていた人は、実際にクラウンを買えるような立場になったらクラウンが欲しかったことを忘れている。

彼と両思いになれさえすれば死んでもいい、と思っていた女性がいたとして、いざ両思いになれた頃にはその願いは変化し、いつも自分だけ見ていて欲しいとか、誕生日にはオシャレなレストランに連れて行ってくれなくちゃとか、そういうことを思うようになっている。

要するに願いは叶っているのだが、そのことに気付けない、ということだろう。

※ ※ ※

もう一つ重要な要素として、労力と時間の問題もあるかもしれない。

たとえば手取り25万の人が、あと3万あれば暮らしは随分楽なのに…と思っていたとする。

「収入を3万増やすぞ」と決意し、3万増やすために必要なしかるべき行動ーーたとえば仕事を頑張って会社に認められるとか、資格を取って手当をもらうとか、待遇の良い会社に転職するとかーーを取り、その上で成果が出るのに必要な時間辛抱していれば、その願いはたいてい叶うだろう。

しかし、多くの場合、人はそういった行動をとらない。また、願いが叶うまでに何ヶ月もかかる事を厭わしく思う。
そして、自分は苦労することなく、迅速に願いがかなって欲しいと思う。

しかるべき手順を踏めば願いはおおかた叶うのだが、そういうのは「願いが叶った」とは思わない。
そうではなく、ステージ3の土管からステージ5にワープするような横着をして願望を実現したいと考え、運よくそれが現実になるようなことが「願いが叶う」ということだと考える。

しかし、そのような都合の良いことは滅多に起こらないので、
「私の願いはいつも叶わない」
という不満が心にたまる。

おそらくそういうことなのだろう。

だから、そういう不満に悩まされている人は、何かを願うたびにそれをノートに書きつけておくといい。何ヶ月かごとに読み返したら、あら、意外と私の願いって叶っているのね、と実感できるだろう。

でも、実を言うと、一番いいのはあまりいろんなことを願わない生き方なのかもしれないな、と私は最近思っている。
ああなりたい、こうなりたい、あれが欲しい、これが欲しいという欲に振り回されて生きるのは、なんだかしんどいことに思えてきたからだ。

アメーバのように形を変え、蜃気楼のように逃げていく「願望」という魔物を追いかける人生は、決して食べられない人参を鼻先にぶら下げて走らされる競走馬に似ているような気がする。

眼前する環境に感謝し、それを喜んで生きる。
それは別に道徳として強制的に押し付けられる苦行ではなく、心安らかに生きるためのテクニックなのだろうなと、そんな風にいまは思っている。