私たちが何かを認識するとき、その背後には選択されなかった無数の選択肢が隠れている。
たとえば、目の前にある赤くて丸いものを見て「リンゴだ」と認識するということは、「リンゴ」以外のあらゆる選択肢を切り捨てる、ということである。
そして、ある判断を下す際に切り捨てられる選択肢の数が、そのシステムの複雑度をあらわす。
1ビットの情報量しか持たないシステムであれば、「リンゴだ」の裏に潜む選択肢は「リンゴではない」だけである。
2ビットの場合は持ち得る情報の数が2の2乗=4になり、捨てられる選択肢の数は3になる。たとえば、「リンゴだ」「りんごではない」「ボールだ」「ボールではない」のうちから後ろ3つが切り捨てられて、「リンゴだ」が残る。
256ビットなら2の256乗…計算はちょっと勘弁してください。
人間の脳が何ビットの情報量を持ちうるのかは知らないが、それはそれこそ天文学的な数値になるのだろう。
我々は一瞬一瞬何かを判断しながら生きているわけだけれど、それはとりもなおさず、ものすごい量の計算と取捨選択を繰り返しているということでもある。
もちろん、持っているあらゆる情報が常に天秤にかけられるわけではなく、効率をよくするためにレイアウトの最適化や索引付けみたいなことはされているのだろうけれど…。
意識の世界において、リンゴは単独ではリンゴたり得ない。リンゴである、以外のあらゆる選択肢との対比によって、はじめてリンゴが意味を持つ。
この考え方を、私は最近ある本を読んではじめて獲得した。言われてみればもっともだけど、これまでそういう風には考えたことがなかったので、これはとても新鮮な気付きになった。
この気付きが私の今後の思索活動にどんな影響を与えてくれるのかはわからないが、なにか面白いことを思いつけそうな予感がして、ちょっとワクワクしているのである。