静龍の庵

諸行無常ということ

仏教の教えの中に、諸行無常というのがある。

この世の全ては流れ行くエネルギーのようなものであり、それは常に移り変わり、一瞬たりともおなじ状態でとどまることはない。それが宇宙の真理である、というような話だ。

私たち人間は、自分では自分のことを「私」という独立した不変の存在であると認識している。
けれど、前述の宇宙の真理に照らし合わせれば、流れ行き・移り変わるエネルギーがたまたまその時「私」という存在を形作っていただけなのだ、いう事になる。

この事について考えるとき、いつも私の頭をよぎるのが、コンピューターの中の世界だ。

パソコンでもスマホでも、あるいはゲーム機でもなんでもいいけれど、スイッチを入れるとたとえばデスクトップ画面が出て、そこに色とりどりのアイコンが表示される。アイコンをクリックするとアプリが起動し、ウィンドウが表示されたりする。

アプリは音楽を鳴らすかもしれないし、綺麗な画像を表示するかもしれない。あるいは何か計算をしてくれるかもしれない。

我々は、そういうアイコンやアプリを、一つの固定された何かであると認識するけれど、コンピューターという箱の中でアイコンを描いたり音を鳴らしたりしているものの正体は、電源コードから絶え間なく流れてくる電気だと言っていいだろう。

デスクトップ上のアイコンは、削除しない限りは、スイッチを入れるたびに同じ色、同じ形で同じ場所にある。それだけを見ていると、それは固定された一つの「存在」、不変な何かのように見える。
しかし、そのアイコンの実態は流れ行く電気エネルギーであり、それはひと時として同じものではあり得ない。

エネルギーに印をつけて同定することはできないので、同じでない、と断言はできないが、いまこの瞬間にアイコンを表示している電気エネルギーと、一時間前に表示していた時のエネルギーは、同じではないと考える方が自然だろう。
その証拠に、iPhoneをつけっぱなしにしておくとバッテリーが減っていく。

万物はエネルギーであるとか、波動である、とかいう話は、それ単体で聞くと理解に苦しむところもあるけれど、こうやってコンピューターの中の世界になぞらえて考えると、ああ、なるほどそうかもね、と思えてくるのである。

コンピューターの中を流れたエネルギーは、なんらかの形でコンピューターの世界を抜け出し、外の世界へ出ていく。
その同じエネルギーが、あちこちを巡ったのち同じコンピューターの中に戻ってくることもあるかもしれない。
その時、かつて「ディズニーつむつむ」のアイコンを形作っていたエネルギーが、今度はパズドラのアイコンを表示する事になる、ということも、当然あるだろう。

我々の世界もそれと同じで、さっきまで「私」を構成していたエネルギーが、次の瞬間は別の何かを形作るのかもしれない。

そう考えると、「全ては繋がっている」という考え方や輪廻転生の概念なども、なんとなく理解できそうな気がしてくるのである。
「私」という自我が転生するのではない。
ある時「私」を構成していたエネルギーが、別のものとしてまたこの世界に戻ってくるのだ、というように。

「私」という存在をこの世に固定しているのは自我であり、それを取り除けば全ては一つ。
そういうことなのかもしれない。

しかし、ならばなぜそのような「自我」が敢えてこの世界に設定されたのか。
そこのところについて自分自身を納得させうる哲学には、残念ながら今のところまだ出会えていない。