人間は生まれてから数年の間に、急激なスピードで言葉を学ぶ。言葉を学ぶプロセスは、取りも直さず概念習得の道のりであると言っていいだろう。
学ぶ言葉、すなわち概念の体系は、生まれ落ちた環境によって人それぞれに異なる。大きな括りでは民族や国家、小さいものでは家庭を中心とした身近な環境が、概念構築の基盤になる。
概念の習得とは、その環境で効率良く生きていくために自分自身を最適化していく作業でもあるとも言ってよいと思う。
より多くの概念を身につけることで、その環境における状況判断がやりやすくなっていく。
それは、数多くのデータを入れたエキスパートシステムの方が、正解に近い答えを導き出しやすい、というようなことである。
けれど、概念を習得するということは、習得した概念の中に自分自身を閉じ込めることでもあるのではないかと、私は最近思うようになった。
ニホンザルの顔を個体別に見分けることは、我々には難しい。しかし、生後数ヶ月くらいまでの赤ちゃんには、それができるのだという。
ニホンザルの顔の微妙な違いを的確に見分ける能力は、人間社会で普通に生きていくためには必要ない。だから、成長するにつれてその能力は封印されてしまうのだ。
不要な能力を封印するのは、効率よく生きるための智慧なのだろう。
でも、もしかするとそれによって、大切ななにかも意図せず閉じ込められてしまっているということがあるかもしれない。
言葉というのは、要するに概念に付けられたラベルであって、それを使って思考している限り、私たちは自分で築き上げた概念の檻からでることができない。
言葉を使わず思考する、ということができたとき、私たちの思考は檻を飛び出して高く飛翔し始めるのだろう。